ReloadSearchPastLogAdmin Tatsu Matsuda Architects / 松田達建築設計事務所

509Algorithmic design / 1975(アルゴリズミック・デザイン/1975)
Date: 2009-06-22 (lundi)

アルゴリズミック・デザインについての討議が10+1web siteの建築系ラジオr4から配信されました。この討議3回分は、毎週月曜日の臨時配信となり、今回は、その1「アルゴリズミック・デザインとは何か?」(出演者:松川昌平田中浩也藤村龍至柄沢祐輔松田達)です。
http://tenplusone.inax.co.jp/radio/

この一連の討議、多分これまでの討議とは少し性格が異なっていると思います。槻橋修さんに、以前ミッド・セブンティーズという名前を付けてもらったことがあるのですが、今回見事に全員1975年前後生まれの世代によるトーク。ここでは前後3年固まっていて、そのど真ん中になります。1975年というのは、実はレム・コールハースOMAを立ち上げた年です。そして日本では1975年は磯崎新イヤーとしても有名な年です。磯崎さんはこの年44歳。群馬県立近代美術館北九州市立美術館が竣工し、二度目の学会賞を受賞し、『建築の解体』が出版され、新建築住宅設計競技で衝撃的な課題を提出する。石井和紘は新建築1975年12月号の巻頭文で「1975を回顧して 積分の諸様相−磯崎新の噴火−」なんて文章を書いていたりもする。つまり世界的に建築界における一種の地殻変動が起こった年だと僕は認識しています。コールハースは1989年にいわばビッグ・バンを迎え、やはり多産なコールハースイヤーとなっているが、それもやはり44歳の年である(この建築家44歳説は以前に一度書いた。青木淳さんも、44歳になる2000年は多産年)。また1975は20世紀の3度目の四半世紀を迎える年でもあり、それでは20世紀を4つに区分したら、それぞれどう名前を付ければよいのかと考えてみたい欲望にかられるのだが、1975年-2000年の日本を代表するのはやはり磯崎さんではないかと思う。1950-1975は丹下さんか。世界に広げると1925-1950はコルビュジエか(『建築をめざして』『ユルバニスム』が1923、1924)。その先はまだよいアイディアがない。



それはともかく、この回はまだ穏やかな感じですが、次第に互いの立場が先鋭に分かれていく討議です。残念ながら、もっともガチンコトークになった飲み会は記録に残っていない。僕なりの状況分析は、過去の書き込みの通りですので、ぜひあわせてお聴きください。

建築書に関する討議にて、3冊の推薦図書をあげさせて頂いていますが、この推薦理由は下記の通りです。こちらは30年をタームとして考えています。コルビュジエは、もっとも特徴的だと思われる30年代に代表させています。
「20世紀を考える3冊」(焦点は、30年代、60年代、90年代)
スタニスラウス・フォン・モースル・コルビュジエの生涯彰国社、1981
ル・コルビュジエの本は数多くあるけれども、伝記としてもっともまとまった本。コルビュジエはメディアによって大きく誇張されたり、曲解されたりしているところもあるだろう。けれどもこの一冊を読めば、まずはもっとも正確なコルビュジエ像に迫ることができるだろう。他のコルビュジエ関係の本の位置を知るための原点になりうる。



アルド・ロッシ都市の建築大龍堂書店、1991
難解な本を読むなら、現代思想もよいけど、建築系ではこの本に挑戦することをお薦めする。テキスト自体が建築と都市の迷宮に入り込むような複雑さを帯びていて、そのいわんとしているところに到達するのは難しい。しかしヨーロッパ中の都市を知るロッシだからこそ切り込める詳細な分析とモダニズム批判。ヨーロッパ各国語に翻訳された名著。



・『新建築臨時増刊 建築20世紀 4人の建築家が問う1990年代新建築社、2001
建築作品について考えるなら、この一冊。1990年代の主にヨーロッパの建築を、伊東豊雄山本理顕青木淳西沢立衛の4人が問う。同時に、日本の建築界の90年代も逆照射されて見えてくるようで、非常に興味深い。本格的なグローバリズムのはじまる直前であり、日本とヨーロッパの距離感がいまと違うことも読み取れるのでは。

また、建築系ラジオのバナーをはじめて掲載して頂きました!記念すべき初バナーは、建築系学生のための情報サイトLUCHTAさんのサイトです。LUCHTAさん、ありがとうございました。ちなみに、ルフタは学生であれば誰でも無料購読ができるらしいです(下記サイトより)。送ってもらえるのですが、これは学生でもあまり知らないのでは。
http://www.luchta.jp/
http://luchta.jp/about/
なお建築系ラジオのバナーについては、HPに掲載して頂けるサイトさんがありましたら、リンクフリー、ダウンロードフリーになりますので、どうかご協力頂けましたら幸いです。何種類かバナーが用意され、1部と2部の両方に飛ぶバナーもできています。
http://radio.tatsumatsuda.com/banner.html

お茶の水にて、工学院大学准教授に着任された遠藤新さんの新たな門出を祝う会。ライトの弟子と同姓同名ですが、遠藤さんは30代の若い方です。ここで都市工出身の多くの方とお会いすることができました。僕にとって都市工はルーツのひとつであるのですが、学部までしかいなかったため、卒業以来10年近いブランクがあります。しかしここ最近、中島直人さん阿部大輔さんにお誘い頂いて関連する会に参加させてもらっていて、建築学科とはやはり微妙に異なる就職先の人とよくお話ししています。これがとても新鮮で勉強になります。シャルル・ビュルスの研究をしている田中暁子さんとも話すことができ、ややマニアックトークも。横浜市立大学鈴木伸治さんにも本当にお久しぶりにお会いしました。よく考えれば、僕が都市工から建築に移ることになったきっかけの一つは、先輩であった遠藤さんや伸治さんと建築の話をできたことにあったと思います。

ところで最近、走り込みと筋力トレーニングを続けています。そう、今年もA-cupが近づいてきました。56FCの練習へいき、数時間で何試合か。しかし、まだまだ身体のなまっている部分が多い。とにかく、去年のような恥をかかないように頑張ろう。今年は、山田幸司さんも56FCに入ることになりました。


508Jun Hashimoto Lecture(橋本純レクチャー)
Date: 2009-06-17 (mercredi)

桑沢の授業にて、新建築の橋本純さんにレクチャーして頂きました。テーマは「日本空間論」。橋本さん自身が編集された新建築臨時増刊日本の建築空間』をもとに、日本の建築空間を古代から現代まで一気に語るというもの。この授業は今村創平さんと一緒にさせて頂いているもので、この日は今村さんとともに。去年に引き続いてなのですが、今年はさらにおまけでアトリエ・ワン石上純也まで加わって、90分で日本の建築史を総覧するという途方もない授業です。しかも橋本さんの豊富なスライドと正確で緻密な描写の語りによって、僕もどれだけメモをとっても取りきれない素晴らしいレクチャーでした。空間という観点から考えると、歴史を超えた日本の空間の共通性と差異が見えてくる。桑沢のスペース・デザインの学生は、2年生にしてこの授業を受けるわけで、おそらく分からないことも多かっただろうけれども、訪れることのできる建築も多いわけで、ゆっくりと消化していけばよいのではないかと思います。

二コマ目では課題の講評。橋本さんから事前に指定された三つの日本建築の共通性と差異性をプレゼンテーションするもの。ここでは橋本さん、今村さんに加えて、レクチャーを聴きにきていた林要次さんと柄沢祐輔さんにも加わって頂いて、卒計講評会でもできるのではないかという布陣で課題講評。桑沢の学生には、できるだけ様々な視点からの意見も吸収していってほしいと思っています。その後の懇親会では、だんだんと学生のキャラが見えてきた。非常に密度の濃い一日となりました。橋本さん、ありがとうございました。

なお『日本の建築空間』(新建築社)は保存版の大変な名著ですが、いま調べてみたところ、どこでも品切れのようで、入手困難のようです。店頭で見つけたら、まよわず「買い」でしょう。青木淳さん西沢大良さんも監修に加わっており、現代のまなざしも加わって生まれた本です。

浜ちゃんこと浜田充くんが来所。パリでの盟友です。ある相談を受ける。近況などをお互いに話して、やきとん屋へ。

森タワーにてTokio-logyサロン。今回の五十嵐泰正さんの発表はかなり興味深く、東京を見る解像度が一段階上がったような気がした。

東京に来られている酒井亨さんにお会いして、台湾の状況などをお伺いしました。

建築書に関する討議が、10+1web siteのr4から配信されます。建築の本について、何を読んだらよいか、どう読んだらよいかなど、村上心先生にお誘い頂いて椙山女学園大学でレクチャーさせて頂いた後に収録したもので、僕は誰でもできる建築書の読み方3か条を話しています。この不況下だからこそ、本を読むべきという話をよく聞くようになり、今回、村上先生とコアメンバーによるお薦め図書リストもつく予定です。この回は、総合資格学院さんにご協力を頂きました。建築系ラジオ初の提供クレジットが入っていて、大きな一歩です。総合資格学院さん、ありがとうございました。

建築系ラジオはそもそもほぼボランティア活動であり、今後、コーナーごとの小口スポンサーによる提供という形を模索しています。例えば、各討議の、また美術系ラジオの、あるいはカリスマ建築ガールズの、など。もし興味を持って頂いた企業、団体、個人の方がいましたら、ぜひご一報頂けましたら幸いです。

また、コールハースの討議は、南後由和さんによる「シチュアシオニストを編集するレム・コールハース」の前半です。社会学者の南後さんからコールハースを語って頂くことによって、いわゆる建築家の枠を越えたコールハース像が明らかになってきます。また水平/垂直というキーワードが出て、空間的な話と抽象的な話が架構されていき、より横断的な話が展開されていきます。もちろん、その中で具体的な建築と空間の話に引き戻そうという反動もあり、この引き裂かれた状況こそが、コールハースに振り回されている僕たちの状況でもあるのだと、逆説的に見えてくるのではないでしょうか。
http://tenplusone.inax.co.jp/radio/

新潟の合同卒業設計展における収録「地方都市と卒業設計」の写真がつきました。

山崎亮さんから『震災のためにデザインは何が可能か』を送って頂きました。震災におけるデザインの可能性を、有志の学生グループ(この対の作り方がポイントらしい)が提案し、そのプロジェクトからいくつかの提言が生まれる。より広く、デザインが社会のためにできることが問われている本だとも言える。以後配信予定の山崎亮さんへのインタビューでも、この本について触れて頂いています。



artscapeレビュー2009/6/15号がアップされました。
http://artscape.jp/report/review/author/1192005_1838.html
http://artscape.jp/report/review/issue/1205185_1839.html
今回取り上げた項目は、
ル・コルビュジエ国立西洋美術館
・『10+1 No.48 特集:アルゴリズム的思考と建築
・建築教育国際会議(IAES)
・白峰地区まちづくり
森口将之パリ流 環境社会への挑戦──モビリティ・ライフスタイル・まちづくり
・『アルゴリズミック・デザイン──建築・都市の新しい設計手法
坂牛卓建築の規則──現代建築を創り・読み解く可能性
坂倉準三岐阜市民会館
安藤忠雄長良川国際会議場
・ケンチクのウンチクvol.1 建築学生のハローワーク
になります。




507Anti-French-ish=Polyglottal(反フランス語的=多言語的)
Date: 2009-06-14 (dimanche)

アップリンクから発売したDVD『Jean Nouvel』を送って頂きました。映像と建築の融合という意味で、ヌーヴェルほど映像化されるに相応しい建築家はいない。このDVDでは日本語版の監修を五十嵐太郎さんとともにさせて頂いており、そのため、ヌーヴェルのフランス語を一字一句すべて聞き取りました(といっても日本語の口語で分からない部分があるのと同様、何回聞いても判然としない部分もなくはないのですが、それでも考えられる最善は尽くしています)。『Landscape of Architecture』のときも同じような作業をしているのですが、場所によっては字数制限の中、前後の映像によって文字化すべき内容が変わるため、30回くらい見直す場合もあります。



ところで、このDVDの内容に関してはartscapeでもレビューを書かせて頂いたので、そこに特に付け加えることがあるわけではないのですが、音声を聞きながら思っていたことを書いておきたい。ヌーヴェルの思考はやはりフランス語が母語であるという点と切っても切り離せない気がしてならない。あるいはいかにも「フランス語的」である。「奇跡の美学」という言葉が、このDVDのキーワードでもあるのだけど、思考が飛躍をするその瞬間が様々な言葉になって現れている。その飛躍は、コールハースと比較した場合に、明らかに感覚的であり、しかし感覚的といっても、言葉を物質的に捉えた上で感覚的に操っているというような印象なのだ。しかし結果、感覚の乗り越え方が論理的に見えてしまう。そこがフランス語的だ。一方、コールハースの場合は、むしろ物質を言葉のように捉えて、それを論理的に乗り越えていく。その飛び越え方は感覚的だ。

ややこしいが、ヌーヴェルの場合は、論理を感覚で捉え、感覚を論理で乗り越える、コールハースは感覚を論理で捉え、論理を感覚で乗り越える。ヌーヴェルは一見感覚的であるが、本質的に論理的である。コールハースは一見論理的であるが、本質的に感覚的である。つまり、両者ともに、感覚と論理を往復しているのだけど、その往復の方法がちょうど逆なのである。ついでにいえば、ヘルツォーク&ド・ムーロンは、言葉を「媒介」にはしていないのだけど、感覚と論理が完全に一致してしまったような、他者に真似のできない独特の次元で設計を続けているように思える。実はこのようなことはかなり以前から何年も考えていて、いまさらいきなり答えの出る問題だとは思っていない。しかし僕は感覚の論理、論理の感覚こそが重要だと思っていて、だからこそその往復をしているヌーヴェル、コールハース、そして往復ではない方法で現に乗り越えているH&dMの3者を、ヨーロッパの建築家の中では飛び抜けて尊敬している。なお、この感覚と論理を結びつける方法論を探求しようとしたのが、例えば慶応SFCのデザイン言語研究会であり、先日の講評会からしらばらくたって、このことを思い出した(もちろん松川さんの授業は違う次元で、違うことを乗り越えようとしているものであるので、直接は関係ないのだけど、でも僕自身の問題系では結びつくこともある)。

少し話がそれてしまったけれども、H&dMは言葉を物質そのものとして扱う=論理を感覚そのものとして扱うという意味で、やはり「ドイツ語的」なのだ。しかしそう考えるとコールハースはうまく位置づけられない。オランダ語的でも英語的でもないし、もしかしたら日本語的なのか。しかし日本語は徹底して感覚的な言葉だと僕は思っている(論理的な部分は漢語から?)。ヌーヴェルとの対置から、反フランス語的とはいえるだろう。しかし反フランス語的とは何か?そう考えると、ヨーロッパ的マルチリンガルという不思議な言葉が浮かんだ。当然コールハースはフランス語も話すし、多くのヨーロッパの知識人同様、数ヶ国語を話すと聞く(これについてはどれくらい話すのか情報を知りたい)。それはフランス語的なものを包摂していないのだろうか?この文脈では僕は「していない」のだと思う。ヨーロッパ人の多くは数ヶ国語を話すのだけど、それがなぜ反フランス語的かといえば、ヨーロッパの言語のなかでもっとも排他的な言語がフランス語だからということはいえるかもしれない(フランスはヨーロッパでもっとも英語が通じにくいとよく言われる)。欧米諸語に限られた話かもしれないけれども、英語ほど他言語に浸透していった言葉はないし、フランス語ほど、英語の流入を嫌った言葉はないだろう。

もし仮説をあげるとすれば、異なる言語を飛び越える瞬間、感覚的な論理の飛躍が起こるのではないか。あるいは感覚的な論理の飛躍とは、異なる言語を飛び越えるのと同じようなものではないか。そこが、完全にフランス語で思考をしている(と思われる)ヌーヴェルと、複数の言語間を横断するコールハースの違いなのではないかと僕は思っている。

ところで、僕自身はまさにこのような理由から、複数の言語を学ぶことを自分に課してきた。英語圏ではないところにいかなければいけないと思いはじめたのもそのためだったし、それ以降ずっとぼんやりこのことは考えていた。フランスにいたときの友達はよく知っているだろうけれども、僕は恥ずかしいくらい、えらく多くの言葉をかじっていた。英語、フランス語はもちろん、スペイン語、ドイツ語、中国語、ポルトガル語、イタリア語、韓国語。ラテン語やアラビア語の本を買ったこともある。「恥ずかしい」というのは、英語やフランス語もままならないのにというためで、特に一カ国語ずつ素晴らしい速度でマスターしていくヨーロッパの友達から、どうしてフランス語一カ国語に絞らないのかとかなり説得された。しかし僕の中で直感的に分かっていたのは、英語をこれだけ勉強してこの程度の自分が、フランス語をどれだけ勉強しても、ある限界を超えられないということだった。だから限られた時間で学ぶのなら(ヨーロッパにいるときの方がいろいろな環境の違いから圧倒的に言語は勉強しやすい)、フランス語と同時にできるだけ多くの言語を同時に学んだ方がよいという風に勝手に判断していた。もちろん僕の言語能力はからきしである。ほとんどの言語はほんとにかじっただけである。志はあっても、現実はなかなか追いつかない。しかし僕の場合、言語を習得することより、その言語によって課せられる思考方式の違いのようなものを学ぶことの方が重要だった。日本語の思考方法から外に出るために、日本から飛び出したといえるかもしれない。

これらの言語にまつわることは、建築と距離のあることだとは思っていない。むしろ、まさに建築的思考のハードコアと結びつくことだと思っている。この複数言語の思考法といったものこそ僕にとっては重要で、それが何かを飛び越えると思っている。そしておそらくレム・コールハースに僕が共感してしまうのは、その点なのである。コールハースがなぜ論理を感覚的に乗り越えられるかといえば、複数のドライブさせた思考が、ふっとある瞬間に別の路線に乗り移って、一つの思考だけでは到達できないところにいってしまっているようなところがあるからなのである。


506YSSK TIME EXTRA - BOY MEETS GIRL(YSSK TIME版カリスマ建築ガールズ)
Date: 2009-06-11 (jeudi)

新しい建築系ラジオのシリーズとして卒業設計シリーズが始まりました。といってもまずは全3回。新潟での合同卒業設計展Session!の最終に、新潟の学生と岩佐明彦先生に「地方都市と卒業設計」というテーマでインタビューをしたものが、ようやく配信できました。遅くなってごめんなさい。彼らはもうShinという建築サークルを結成して、来年に向けて動いています。この収録、改めて聞いて、問題提起型のとてもいい内容になっていると思いました。地方の建築学生が、何を考え、どう情報を受け取り、どういうことをしようと思っているのか、そういうことが率直に聞こえてきます。他の地方都市の建築学生は、ぜひ聞いてみて下さい。何か反応や波紋が生まれるとよいのではと思っています。これに限らず、一人の学生のちょっとした行動が、建築界にとって少なからず影響あることもあり得たりするので、迷ったら、何らかのアクションを起こせばよいのではと僕は強く思っています。
http://tenplusone.inax.co.jp/radio/
http://shin-niigata.d2.r-cms.jp/

正確に言えば、地方都市から卒業設計を問う、というわけで、グローバルとローカルの環境の軋轢を問うというという意味では、7月に開かれる建築教育国際会議の問題系にも接続しそうです。
http://www.iaes.aud.ucla.edu/

レム・コールハース討議の第3回も配信されました、勝矢武之さんによる「批評からスクリプトへ」。もう10年くらい前になりますが、京都から東京に出てきたかっちゃん(愛称にて失礼)とは、彼の修士論文に衝撃を受けて以後、数々の議論を続けてきました。いつも会うたびに延々と意見を闘わせてきて、同世代で僕が理論的にもっとも勉強させてもらった人だといえます。今回も、忙しい中無理にお願いしたのですが、さすがかっこいいお話をしてくれます。この討議に関して堀井義博さんが書かれていることがまた興味深い。堀井さんほど正確ではありませんが、討議の最終回くらいでは僕も近いことをいっているかも。しかし、ルネッサンスが批評だとは気付いていませんでした。
http://www.0110110.com/blog/item/223

YSSK TIME版カリスマ建築ガールズが生まれたそうです。YSSK TIME EXTRA「BOY MEETS GIRL」。ついに女性パーソナリティ登場ということで、どうやら新展開を迎えたようです。建築系ラジオには、よく考えたらいまだ女性パーソナリティは登場していませんから、一歩先を超されましたね。それと、YSSK TIMEは最近ようやくPodcastに正確に登録できるようになったのではないのでしょうか。前からエラーが起こっていたのですが、先ほどはじめて登録できました。京都でのコラボレート企画は、いつになるのでしょうか(勝手にやるということにさせてもらっていますが)。楽しみにしています。
http://yssk.seesaa.net/article/120822998.html
http://yssk.seesaa.net/

南洋堂にて荒田哲史さんから中沢新一著『アースダイバー』を紹介して頂く収録を。この収録、誰にも話してないはずなのに、録音ボタンを押そうとしたその瞬間、南泰裕さんが登場。そしてその手には偶然とは思えない書籍が。なぜか僕の行動が読まれている。ということで、南さんも一緒に『アースダイバー』について、話して頂きました。準備していたのでは?というくらいの、南さんの流暢な語り。この収録が結構面白く、関連書籍も含めて、都市を読む新しい視点の登場がうまく位置づけられたような気がします。




505Complex battles(複雑なバトル)
Date: 2009-06-08 (lundi)

記念碑的な収録ができたと思います。大げさかもしれませんが、音声アーカイブとしてはそうかもしれないと思っています。本当は先に書くべきエントリーがあるのですが、順番を入れ替えてこの話題から。6月6日の土曜日に、松川昌平さんにお誘い頂いて、慶応SFCにおいて、松川さんの持つ二つのスタジオ、慶応SFCと東京理科大の合同中間講評会にゲスト・クリティークとして参加させて頂きました。「関数空間 Algorithmic Space」というお題のもと、学生が互いの案のフィードバックも含めて、進化論的に発展させた案を提出するというもの。最終的にアルゴリズムを用いたデザインにしていくということですが、中間ということもあり、多くの案はまだその変数となるものを模索しているような段階でした。また、大きく言えばプログラムやアルゴリズムに意識的な慶応SFCの学生に対して、アルゴリズムを必要としない案も散見でき、いわばかなり「建築的」にみえる理科大工学部の学生という特徴も見えてきていたと思います。

講評会がはじまると、いきなり「変数は?」とか「そこでのアルゴリズムは?」という質問が飛び交うような、なかなか普通の講評会では見ない状況。とはいえ、数案見るうちに松川さんの出題意図も次第に分かってきた。課題設定としての面白さもさすがだと思う。学生の側には、この難解な問題設定に対して多少の戸惑いも感じられ、中にはアルゴリズムに関して、ほぼ触れない学生もいた。つまり、アルゴリズミック・デザインなんて必要ないのではという立場の学生も、少なからずいたのだと思います。今回のクリティークのなかでは明らかに僕が一番アルゴリズミック・デザインに関しては距離をとっているので、僕自身のコメントは、そういう松川スタジオにいてもごくごく普通の設計をしている学生にも理解できるようなコメントを、できるだけ重点的に心がけました。でもそれはアルゴリズムを必要としない立場をとったほうがよいとそこで勧めるものではもちろんありません。松川さんの授業の設定が進化論的設計プロセスを用いるのだという限り、それはある種のゲームのルールなのだから、課題としてはそのゲームのなかで最大限のことをやるべきなのです。つまり、はなからゲームのルールを馬鹿にしている学生がいたとしたら、それはもったいないと思います。積極的にゲームのルールの中に飛び込んでいくべきなのです。今回の構成メンバーから、そのことを伝えるのがおそらく僕の役目の一つでした。

一方で、アルゴリズムを用いようとはしているけれども、それは手で計算してしまったほうが早いというような、形態的、プログラム的にかなり単純な案を提出している学生も多くいた。講評時かその後に触れたと思いますが、松川さんの授業においては、手作業では解けない問題を設定して、その簡単に解けない問題に対してアルゴリズムを使うべきだと思うのです。だから最初に手作業で解けてしまう問題を設定している学生に対しては、より授業から何かを得るためには、解けない問題を見つけるというところからはじめた方がよいのではということをいいたくなった。それによって、初めて松川さんの伝えたいことが見えてくるのではないかと思う。もちろんその方法論が、アルゴリズミック・デザインとして唯一の最高のプロセスであるかどうかは別の問題だとは思いますが、それについては、むしろ講評会のあとの建築系ラジオ収録と、さらに朝までの居酒屋での討議で触れられた。

さて、この実験的な課題の講評会は、5時間半の長丁場、相当に刺激的だったのですが、さらに建築系ラジオ収録へと進む。学生も疲れていたでしょう。しかしむしろここからが本番だと言える。このお話、そもそも松川昌平さんにインタビューをお願いしたところ、逆提案として、この講評会への参加と、ゲスト・クリティークを含めての討議をアルゴリズミック・デザインについてしましょうということに発展したもの。提案を受けた瞬間は、実は「はめられた!」という思いもあったのです。もちろん、受けたものはぜひそのまま引き受けさせて頂きたいので快諾させて頂いたのですが、彼は黒幕としてまったく面白い提案をしてくれたと思います。将来的に想定しなくはなかったのですが、この議論はこんなに早く来るべきではなかったと思ったのです。しかし、あとで松川さんから最近の近況を聞いて、いや、今この段階でしかできなかったことなのだと、はっきりと分かってきました。

参加メンバーは、講師の松川昌平さん、同じくゲスト・クリティークで来られていた藤村龍至さん田中浩也さん。そして『10+148号のアルゴリズム特集を編集協力された柄沢祐輔さんも当日参加。柄沢さんは講評会にもオブザーバーとして、参加されました。皆さん長い付き合いの友達ではありますが、僕にとってはある種、敵陣ど真ん中(笑)。アルゴリズムに関する僕の知識は非常にひ弱なものだし、特にその建築への可能性について大きくは賛成しているわけではない。その状況で、これまでアルゴリズミック・デザインに関する議論を重ねてきた彼らに混じって討議をというのは、素手で武装兵の中に飛び込んでいくようなものです。しかもコールハースについての濃密な討議の数日後、桑沢デザイン研究所での課題講評会もはさんでいたので、ほとんど何も準備する時間がない。アルゴリズミック・デザインに関して一番距離のある自分が、それについて反論しようものなら、四人から袋だたきに遭うのではと、相当びくびくしながらここに来ていたのです。

収録のテーマは「(仮)アルゴリズミック・デザインをめぐって」。出演は、松川昌平+田中浩也+藤村龍至+柄沢祐輔+松田達(なお、この順は、たまたまですが、最後に出てくる図式と関連して重要になります)。おそらく3回くらいに分けて、10+1 web siteから配信されることになると思いますが、お互いの立場の共通点と相違点、対立点のポイントとそれへの理解といったことが分かるような、非常に密度の高い、理想的な収録になっています。しかしもっとも興味深かったのは、ボコボコに袋だたきに遭うと思っていた自分が飛び込んでいった陣地では、別のバトルが行われていたというところ。まず「科学」と「政治」をめぐって松川vs藤村論争が繰り広げられていた。距離の近いと思われる二人が論争を繰り広げていたことは意外で、その論争についてはすでに二人のブログに載っているので参照されたい。基本的には分析・発散型の松川に対して、統合・収束的な藤村という対立。しかし、収録を聴いてもらえれば分かると思いますが、松川-藤村の全体としては、帰納的な手続きを積み重ねていくことによって、未知の領域に到達しようという共通の方法論であるともいえる。それに対し、柄沢さんはある種演繹的な立場を表明する。つまり、経験したことのないものは経験できないのであり、経験したことのない感覚を実現する可能性を追究するためにアルゴリズムを使えるのだと。そのためには初期値の設定自体がありきたりのものであってはいけないという。経験論を乗り越えて未知の幾何学に到達するのだという。まさに、イギリス経験論と大陸合理主義的な対立。しかし、いずれにせよアルゴリズムを用いて人間の手作業で到達できない地点に到達することで、建築を革新できるのだという立場は、同じようにも見える。

## webmaster 註 : 松川さんの該当ブログ藤村さんの該当ブログ

僕の立場も表明しておかなければいけない。先制攻撃を加えるつもりはないというのが、まずは個人的な立場なのだけれども、この収録後の朝までの飲み会で、藤村氏と松川氏から軽い先制攻撃をかけられたので、軽い応答はしておきたい。すなわち、自分の立場は何であるかはっきりせよと。松川さんの立場のメタファーは「科学」であり、藤村さんの立場のメタファーは「政治」であると。ではお前は何であるか、それは松田問題だと。そこで、僕の立場は「建築」であると答えたのですが、それでは答えになってないと反論を受けた。自己撞着していると。もちろん「建築のメタファーが建築」であれば、確かに自己撞着なのですが、立場表明として、僕はメタファーで建築を語ったりつくったりするわけにはいかないということを言いたかったのです。もちろん、外部参照が問題というわけではありません。ただメタファーで建築を語るということは、建築外部にあるものに準拠して建築を考えるという思考であり、収録で話題になったアナロジー型ではないけれども、その場合は「科学」の外に出る、「政治」の外に出るということが困難になってしまう。別の言い方をすると、「建築でしかできないこと」に到達するためには、外部参照しているだけでは限界があり、やはり「建築的思考」をもってしかないのだ、というのが僕の立場です。もう一人、柄沢さんの立場を僕から推論してあげておくと、「哲学」をメタファーにしているというのが彼の立場ではないかと思います。「科学」や「政治」を「哲学」によって乗り越えようとしているのが柄沢さんの立場であるかもしれない(違っていたら申し訳ないけれども、個人名が重要なわけではないのです)。そうすると多少、僕が「建築」がメタファーだといった話が分かりやすくなるのではないか。というのも柄谷行人が『隠喩としての建築』のなかであげたように(まさに「メタファーとしての建築」ですが)、「哲学」と「建築」のどちらが根源的かという話にも接続してくるからです。そこでは建築が哲学をモデルとして構築されてきたという従来のモデルが転倒され、哲学が建築を隠喩とした知の建築である、という話が展開されていた。だから、柄沢さんなり哲学なりが、ここに差し挟まれるのは大事だと思うのです。



かなりややこしくなって来たかもしれないので、これらの関係を図式化しておきたい。繰り返しになりますが、個人名は特に重要ではなく、ここには複数の立場が代表されていると考えればよいと思います。しかし実際のところ、それが個人名の対立関係であっても、僕はいっこうに構わないとは思います。つまり、

(((松川=田中)×藤村)×柄沢)×松田

である。先ほどのメタファーで語るなら、下記のようにも書ける。ここでは便宜的に田中さんの立場を「技術」とさせて下さい。なお、正確な学問の対立ではないので、やはり個人名のバトル関係の方が分かりやすいかもしれない。

(((科学=技術)×政治)×哲学)×建築

これらの複雑なバトルが、「アルゴリズミック・デザインをめぐって」の討議では同時進行的に起こっている(!)。聞いていて、かなり分かりにくくなるかもしれないけど、その場合はぜひ上記をご参照ください。

しかし、僕自身の立場は弱い。実践において少なくとも僕より先行している彼らに、偉そうなことを言う資格はないと思っています(少なくとも現時点においては)。理論と実践は、対立するものと考えられるが、単なる二項対立ではなく、僕のモラルとしては、実践の方が重いと思う。理論は理論に対抗できる。作品は作品を評すと思う。そして作品は理論を評すことができると思う。しかし理論が作品を評しても、説得力は相対的に少ない。だからこそ方法論を闘わせるということよりも、実作で勝負することにつながる「建築」の立場を取りたいという主張は、自分としてはごくごく当然ではないかと思っています。やはりどれだけ方法論が進化して面白くなったとしても、建築の面白さというものは、そこから切り離して考えるべきだと個人的には思っています。ここは保守的で申し訳ないのだけれども、「よい建築」を説明する「ロジック」はいろいろでてくるだろうけど、「ロジック」がよくなっても「よい建築」が出てくるとは限らない。というのが、一番分かりやすい僕の立場かもしれない。この立場に共感を持ってもらえる人はいるだろうか。でも、だからこそ現時点での僕の立場はそんなに強くないのですけどね。もちろんそれとは別に、ロジックはロジックに勝てるし、どんどん進化していくだろう。それはとてもよいことだと思う。

なおこの講評会と建築系ラジオ収録、および学生の皆さんも一緒になっての朝まで討議を経験して、互いの共通点と対立点を認識した上での議論が行われているというところに、素晴らしい健全さを感じました。そして、意表をつく(笑)、しかし非常に実りの多い提案をしてくださった松川昌平さん、ラジオ収録に参加して頂いた田中浩也さん、藤村龍至さん、柄沢祐輔さん、どうもありがとうございました。学生の皆さん、ぜひ後半戦を頑張って、よい作品に結びつけてください。

*

建築系ラジオ2部では、台湾現地ジャーナリスト酒井亨インタビュー「アジアにおける台湾」、美術系ラジオ第7回「最近の美術館展示:20s and 00s」、中島直人インタビュー(後半)「美としての都市計画と科学としての都市計画」の3本が配信されました。酒井さんのインタビューは、やや極端な表現もあるかもしれませんが、これだけ深く台湾を知る方にお話を伺えたことは、このツアーの最大の収穫のひとつです。美術系ラジオでは、最近のいくつかの展覧会のレビューが行われています。文字にすれば相当の情報量。中島直人インタビュー後半は、個人的に一押しで、重要なことをお話できたと思っています。美と科学という二つの都市計画の対立と乗り越えの歴史は、現在の都市計画を考える上でも相当重要なのではないかと思っています。
http://radio.tatsumatsuda.com/issue/31/
http://radio.tatsumatsuda.com/

奇しくも八束はじめさん、倉方俊輔さんも、別の意味ですが、二つの都市計画について書かれていた。
http://tenplusone.inax.co.jp/200905/issue1.php
http://tenplusone.inax.co.jp/200905/issue3.php


PageTopSearchPastLogAdmin Tatsu Matsuda Architects / 松田達建築設計事務所
Sun Board --- tuned by 0110110